我思う、ゆえに我あり
「我思う、ゆえに我あり」という言葉だけは知っているという方が多いかもしれません。
フランスの哲学者ルネ・デカルトはまだ若い頃、今ある世の中のあらゆる学問を習得した後、それらをいったん全て否定し、全く新たに自身の学問の土台を築こうとしました。
彼は「一つでも信じられないものがあれば、全体を疑うべし」という「方法的懐疑」という信念を持っていました。
デカルトは、世界のすべてが偽りであり、自分自身の存在さえも疑念を抱くなかで、それでも唯一否定できないものが、真偽を問い続ける自分自身の存在であることに気づきました。
これが有名な「我思う、ゆえに我あり(Cogito ergo sum)」という言葉に繋がります。
この言葉の本来の意味としては「思う」よりも「考え続ける」という訳の方が正確であると思います。
哲学者たちと命を懸けた活動
古今東西の哲学者たちは、既存の文化や制度、あるいは常識を疑い続けてきました。
彼らは、単に「周囲がそう言っているから」という理由で物事を認めたくなかったのです。
しかし、特に中世のヨーロッパにおいては、神を否定する発言は即座に裁判にかけられ、火あぶりにされ本当の意味で「炎上」するリスクを伴うものがありました。
そのため、彼らの活動は常に命がけでした。
デカルト自身も、方法的懐疑という信念を持ちながら「神は実在する」と発言しています。
しかし、その理由は「我思う、ゆえに我あり」と比べても非常に難解であり、それが本当に彼の本心であったかどうかは個人的には疑わしいものがあると感じます。
神の存在を否定することで処刑されたり、書き残した書物を焼き払われることのリスクを避けるための打算的な発言だとしたら、それも含めてデカルトの聡明な一面が垣間見えます。
(デカルトは明らかに疑わしいものだと思っても、相手に対して「それはおかしい」などと言ったりせず、その場ではちゃんと相手の立場や意見を尊重し、事を荒立てない「大人」の感覚を持っていました)
私は学生時代には哲学の意義を理解できず、これが学問として本当に必要なものなのかと疑問に感じていました。
裕福な人々の暇つぶしに過ぎないのではないかと考えていました。
しかし今では、既存の「常識」を疑い、人間の本質を追求しようとする彼らの姿勢に強く共感しリスペクトしています。
デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と発言したこと自体に意味があるのではなく、そこに至るまでのプロセスを知ることが重要なのです。
困難は分割せよ
デカルトは「困難は分割せよ(大きな問題を小さな、扱いやすい部分に分割すること)」という言葉も残しています。こちらの方が哲学という意味を理解しやすいかもしれません。
私が宅建や行政書士の勉強をしていた頃は、とにかく「困難は分割せよ」の実践の繰り返しと積み重ねによって、合格することができました。